パウンドケーキなら九段のゴンドラ
信頼と伝統の100年の味
〒102-0074 東京都千代田区九段南3-7-8
03-3265-2761
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★メディア掲載されたものの一部をご紹介します★
・三宅菊子
・エッセイスト、フードジャーナリスト 向笠千恵子
・AERA No.38より抜粋
・天然生活2015年7月号
[エッセイスト、フードジャーナリスト 向笠千恵子]
最近、手土産にクッキーが人気だ。このクッキー、風味、食感、形が実に多彩だけに、喜ばれるのはアソート、つまり詰め合わせ缶である。それも当然で、蓋を開け、焼き菓子ならではの香ばしい匂いを嗅ぎながら、最初の1枚を選ぶうれしさは格別で、食べる点滴と入ってもいい。
その証拠に、新規参入も含め、アソートクッキーを手がける店が多くなり、イラストをプリントした缶などのおしゃれな製品も多い。生ケーキだけでなく、洋菓子の真髄といわれる焼き菓子の愛好家も増えているわけで、日本の洋菓子が成熟期を迎えたといえる。
ところでクッキーという呼び名は、18世紀ごろから北米で使われるようになったようで、他の英語圏はビスケットという。フランスのプチフールやドイツのゲベックも同類だ。
日本では1971年(昭和46年)に食品の法律でビスケットとクッキーの違いが決められている。わたしのざっくりした解釈では、クッキーは見た目が手作り風で、砂糖と脂肪分が多く、卵、ナッツ、ドライフルーツ、蜂蜜などを適宜用いて風味を高めたものとなる。
つまり欧米の製菓技法に通じ、優れた腕と独自のセンスを持ち、厳選原料にこだわる洋菓子店のクッキーがおいしいわけで、となるとゴンドラ製に最初の指を折る。二代目店主の細内進は若き日にドイツ、スイス、フランスなどで洋菓子修業をしたのち老舗を継いだ方。息子の滋之さんも父と同じく、ベルギー、ドイツ、フランスで腕を磨き、三代目になった。
そんな二人が早朝から厨房に入り、せっせと焼くクッキーは過不足ないおいしさで、砂糖もバターも風味アップの香料やスパイスもちょうどいいあんばい。神田に近く、お屋敷町の麹町を商圏にする九段で、創業100年を迎えようとする東京の老舗洋菓子店ならではの粋を感じる。
缶の中身は12種。型抜き、絞り、サンドなど製法いろいろで、ナッツ入り、チョコレート味、アイシングかけなどテイストも種々。それだけにあれもこれもとつまみたくなる。わたしは原則、1回5個までとしているが、守ったことはない。
[エッセイスト、フードジャーナリスト 向笠千恵子]
ゴンドラの美味は、オーナーシェフの細内進さんのセンスと情熱の賜物。最高傑作はもちろんパウンドですが、その姉妹にあたる焼き菓子は、もっと気軽でコンパクトなもの。ギフトにはもちろん、ふだんのティータイムにもぴったりです。焼き菓子の詰め合わせには、フランス、スイス、ドイツなどヨーロッパ菓子が勢揃い。まるで焼き菓子のEU(欧州連合)といった感じですが、どれも本場の味に細内流の一工夫が加わり、ゴンドラならではの新しいおいしさになっています。焼き菓子の原料は小麦粉、砂糖、卵、バターが基本で、とてもシンプルですが、配合やちょっとした泡立て方などで、みごとに異なった表情を見せてくれます。たとえば、ガトーブルトンは隠し味のラム酒のおかげで、バターのコクが豊潤なのにさっぱり味という不思議な仕上がり。フィナンシェは生菓子タイプで、半生菓子タイプで、配合の妙によって基本材料の素朴さ優美な味覚世界になっていて、ソフトな味わいとフレッシュバターのミックス加減が素敵です。ほかのお菓子たちも、アーモンド、くるみ、アプリコット、フィグ(いちじく)などの香りや歯応えをアクセントしたり、生地の弾力を楽しんだりと、小さな玉手箱のように楽しみがぎゅぎゅっと詰まったものばかりです。いずれも決して派手なお菓子ではありませんが、食べたあとの余韻がそれぞれ深く心地よく残り、いわば大人向けの味わいになっています。いままで各種のお菓子を食べてきた方々にこそ、ぜひ味わっていただきたいと存じます。取り合わせるお茶はコーヒーでも紅茶でもお好み次第。日本茶とも合いますのでお試しください。お茶で口を清めてから、お菓子をいただき、最後の余韻までしっかり噛みしめる―そんなふうに楽しむと、いっそうおいしく味わえると思います。
料理通信 2024年10月
父親は淡路町にあった「両国凮月堂」の支店で修業したんです。凮月堂と名のつく店は多いけれど、上野と神戸だけが“本家筋”。その後、昭和8(1933)年、創業するんですね。父が工場でお菓子を作り、母が店で売るという、町のお菓子屋さんでした。私は生まれたときから、おくるみにくるまれて工場の中で空き箱に入れられて育ちました(笑)。
幼少期のときの強烈な経験が、東京大空襲。B29が低空飛行でやって来てね、焼夷弾をボンボン落とすんです。今でも覚えてますけど、操縦士の顔もハッキリ見えました。中には、塀に突き刺さったままの不発弾もあったりしてね。子どもたちも靖国神社の塀の下で地べたに座って、自分の家が焼けるのを見ていました。このあたりで焼け残ったのは、この先の店1軒だけでしたね。今、ニュースを見ていると、ウクライナの町が無差別に攻撃されたりするでしょう。我々も同じ思いを味わったんですよ。だから、あの惨状は他人事ではないんです。
終戦になると、父の昔の仲間が水飴を持ってきてくれたので、昭和21年には、父はもうヌガーやトフィーを作ってました。もちろん、アーモンドはないのでピーナッツでしたけど。バラックを建てて、そこで販売もしていました。小さな窯が残っていたので、卵が手に入るとカステラを焼いたりもして。「ゴンドラ」が今あるのは、そんなときでも休むことなく働いてくれた父のおかげだと思っています。
店の手伝いはごく自然と始めました。当時、ウエディングケーキやアイスクリームを宴会場に収めていたので、学校の休みに集金に行ったりね。もちろん、工場でも手伝いをしていました。だんだんといろんな材料が手に入るようになると、洋生菓子や焼き菓子の種類を1種類ずつ増やしていって、高校に入る頃には、ほとんど今の形になっていました。ただ、パウンドケーキは今と違って、大きく焼いて切り分けるか、いわゆるパウンド型で焼いていました。四角かったわけです。
昭和30年代の始めになると、クリスマスケーキが売れ始めました。シーズンが近づくと、ものすごい量のスポンジを焼くわけです。普段は使わない丸いケーキ型が大量にたまってしまう。そこで、それを利用しようと、パウンドケーキを丸く焼くようになったんです。
マドレーヌも早くから手がけていました。本来のマドレーヌ(コメルシー)はシェル型なのですが、当時はその型が買えなかったため、道具店に型を作らせたんですね。そのとき、なるべく大きく見せようと、今、よく見かける丸い型を作った。ぴったりの紙ケースも作って、博覧会に出したら大好評で、それを真似する職人さんが続出したんです。
中学を卒業すると、父から「おまえは後継ぎなんだから、商業高校に」と言われて、高校は早稲田実業へ。そう、野球で知られる早実です。世界の王貞治さんは1年後輩にあたります。昭和33(1958)年、高校を卒業すると、京都のお店に修業に出ました。父が洋菓子協会の会長をしていましたから、東京だとどこの店も会長の息子を預かりたくないでしょ。だから、父の勧めで京都にしたんです。
19歳の4月に母が亡くなり、修業途中でしたが、6月に東京に戻り、父と働き始めました。しばらくすると、父からヨーロッパに修業に行けといわれ、まだまだ海外渡航が珍しい時代に、商社のツテを頼りにまずはスイスへ。そして、昭和36年(1961年)、ルツェルンにあった名門リッチモンド製菓学校に、アジア人で初めて入りました。チケットは1年有効なのですが、ひとつの国に3カ月しかいられない。だから、スイスで3カ月勉強したあとはフランス、またドイツへ。パリでは「ルノートル」に日本人で初めて入れてもらえたんです。ムッシュ(ガストン・ルノートル)にはほんとうにかわいがっていただきました。
帰国してから、あるとき、店員募集のためにハローワークに行ったら、「何の仕事ですか」と聞かれるもんだから、「洋菓子製造販売」と言ったら、「そんな職業ないよ」と言われたんです。まったく知られてなかった。それで、この仕事をもっと世間に認知してもらわねばと思い、父がやっていた業界活動を極力手伝うように。昭和40年代からは、毎年のように海外から有名パティシエを呼んで講習会を開きました。今はもう地方にも名店がたくさんできていますが、当時は地方のパティスリーはまだまだ少なかった。トローニャ氏、ドラベーヌ氏、シューマッハ氏、エルメ氏などなど、今思えば豪華な布陣をお呼びしました。彼らのおかげで、日本にも本物が根付き、パティシエという職業が認知されるようになりました。
昭和63年にガブリエル・パイアソン氏を招いた時には、来年1月に創設する「クープ・デュ・モンド」に日本も参加してくれないかと頼まれましてね。第1回大会では、日本代表チームの団長兼審査員として参加しました。これらの活動等が功績として認められて、平成17年には黄綬褒章を受章しました。この時は、ようやくこの職業が認められたんだと、感無量でした。
ともかく、もう私ぐらいしか残ってないんじゃないかな。洋菓子業界団体の歴史をつぶさに知るのは。
現在85歳。コロナ禍は除いて、今も毎年ヨーロッパに勉強に行っています。
「ゴンドラ」の誇りというべきサブレは、海外に修業に行ったことがない父が勉強して作り出したものですが、かつて「ルノートル」のムッシュが来日した折、うちのサブレを食べて、「このおいしさ、本物だ」と驚いていました。生地の配合を変えるわけにはいかないけれど、日々、グルテンの出し方の微調整は必要です。それは長年の経験がないとわからない。だから、いまだに生地は私しか作ってないんです。
昼ごはん前に焼き時間がかかるものなど仕込みをしておいて、オーブンに入れてから昼ごはん。焼けた頃に厨房に戻ってきます。趣味は食べ歩きと旅行。
どんなに時代が変わろうと、あくまでうちは、どなたからも愛される“町のお菓子屋さん”であり続けたいと思っています。